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ある日、本屋の未来をGoogle先生に聞いてみた。
すると出てきたのがこの動画だった。
ちょっと懐かしい、2019年、コロナ前の動画だ。この本をベースにして作成されている。
なぜそんな本屋の未来なんてことをGoogle先生に聞いたのかというと、正直もう、本屋の未来をどうしたらいいのかわからないという日々が毎日続いているからだ。
最近では毎日のようにこんな会話が交わされる。
店内にない本は最短で5日ほどで入荷しますが、ご注文はどうなさいますか?(書店が手数料かけて仕入れますよ!)
そんなにかかるの?じゃあAmazonで注文するからいいわ。
・・・ですよねー
最近では、店で注文をしてくださるのはパソコンやスマホが苦手、というシニアの方がほとんど。
しかもそのシニアの方にも、
パソコンが使えたら、いちいちここにきて注文なんかしに来なくて済むんだけどねえ。
と、にこやかに言われる始末。
ですよね~・・・
なんだか毎日少しづつボディーブローを浴びているような気分。
いや、めげるな・・・立て・・・立つんだジョー・・!!と立ち上がったところへ、
だってさー・・書店て、人気の本は売り切れてるし、買いたい本がないこと多いし、注文したら一週間かかるし、下手したら2週間かかるって言われるし、カバンに入れてると重いし、部屋が散らかって処分するのが大変だし、ホコリ被るし劣化するし、
だから基本電子でいいっしょ。コミックなんてサブスクで読むし。
紙の本ほしければAmazonで買うし。
しかも今時、地方発売日、とか言って東京より地方は新刊が遅れて入荷するんだぜ?
祝日とか入ると平気で3日とか遅れるし。
つまるところ、本屋ってもう・・
いらなくね?
・・きょ・・強烈なアッパーカットをくらいました・・
しかしまだ・・まだ、立ち上がるんだ・・・だって、ほら・・こうやって来てくださるお客様もいらっしゃるのだから・・・!
い・・いらっしゃいませ
すみません、ちょっとおききしたいんですけど。。
はい!なんでしょう
ここらへんで大きい書店て、どこですか?
・・・・・KO。
ノックアウト。カンカンカンカン・・・
・・もう、立ち上がる気力がありません・・・。
にいちゃん・・それはラーメン屋に入って来て「ここらへんで美味しいラーメン店どこですか?」って聞くのと同じ行為だぜ・・(泣)
と思いながらも、ちゃんと丁寧に案内いたしましたよ・・(号泣)。
出版業界の仕組み。無限自転車編。
この本は「嫌韓本などのヘイト本が本屋に大量に並べられてしまう」ということへの憤りをベースとして、なぜそのような状況が生まれてしまうのかを、出版業界のシステムや内情から読み解いていく本である。
永江氏は「嫌韓本」などという人を傷つけるような商品が無批判に書店に並べられ実態に憤る。
嫌韓ブームというもの自体は、2023年の現在には少し時代がずれてる感があるということや、また、人を傷つけない言論などというものがそもそもあるのか、という疑問もあるかもしれないが、
著者が憤っているのは、言論にかかわる出版業界全体が、
売れる本を作りたい!
売れる本を配本したい
売れる本を売りたい
という身もふたもない理由で回っていることだ。
どうしてそうなってしまっているのか・・。詳しくはこの本を読んでほしいし、あっちゃんの動画を観てほしいのだが、ものすごーくざっくりと今の出版業界の流れを説明すると、
こんな本作ったから撒いといて。(んで書店からお金もろっといてな)
じゃあ、書店の実力(規模)に合わせて撒いときますわ(金も回収しときます)
話題の本、1冊もきてへんがな・・・注文してもどうせ入ってこんし、もうええわ。とりあえず来たもんならべとこ。(お金を払う)
時は過ぎ・・。
置いといたけど売れんかったから返すわ(だから金返して)
返しときますわ(金ももろときます)
うわー、返金してたら金足りへんわ・・・じゃんじゃん新刊出して金を回収するぞ・・!
作ったから撒いといて!
らじゃ。
また話題の本は入ってこんのに、柳の下の二匹目の泥鰌をねらうみたいな本ばっかりはいってくるわ・・売れんし、置くとこもないし、資金繰り苦しいから返すわ・・。
という、無限列車ならぬ無限自転車を漕いでいる感じだからだ。(なぜお金の話になると関西弁になるのか・・なんかごめんなさい・・。)
業界が衰退している今、その自転車のスピードはどんどん速くなってきていて、そのなかで「じっくり本を作る」とか「じっくり販売する」とかいうことができないまま、ただ、みんながだんだん自転車をこぎ疲れて疲弊していく・・・ということが起こっているのである。(そしてどんどん倒れて脱落していく・・)
しかし、そのような状況を理解したうえでも、著者は、書店員は無自覚に作業員のように本を並べてはいけないという。(著者は書店員の経験があるため、この本では主に書店員に向けての提言となっている)
嫌韓本のように「その人の属性によって迫害する」という行為は、ナチスのホロコーストと同じだ。
そういう本を無自覚に店頭に並べる行為は、その迫害に無自覚に加担しているのと同じだ、というのだ。
読書とは革命である。
たしかに、先日このようなことを思ったことがある。
スタッフがある方法をAに変更した。すると他のスタッフが「それはBという方法でなければだめだ」と注意した。
しかし、客観的に見てもAの方が効率がいいし必然性がある。なのでそのスタッフに、どうしてBでなければならないのか聞いたところ。
今までそういう風にずっとしてきたから(そういう決まりだから)
という答えであった。
・・・それは確かに書店員としてはまずい。。
なぜなら、大げさに言えば、読書をするということは革命だからだ。
革命というのは自明のこととして存在する権力や構造に、
それっておかしいんじゃないの?
とツッコミをいれることだ。
自分の頭で考え、自分の頭で判断して意見を言えるために、その力を得るために本がある。
決まりだから、上から指示があったからという理由で、その内容がどうであれ「真面目に遂行すること」に疑問を持たない人は、屋根裏に隠れているユダヤ人を「真面目に密告する」市民になりうるだろうし、嫌韓本を無自覚に真面目に店に並べる書店員になるだろう。
書店員はそうであってはならないと著者はいう。諫言耳が痛い。
解決策はセレクトショップ?
では、いったいどうしたらいいのか。その解決策はこの本に書いてあるだろうか。
第三次産業革命、IT革命によって、今までのシステムは根こそぎひっくり返そうとされている。出版業界のシステムも機能不全に陥っている。
そのなかで書店がこれから生き残っていくためには、どうしたらよいのだろうか。著者の答えは魅力的な店づくりだそうだ。
本屋は見計らい配本・パターン配本をやめ、本を仕入れて売る。
「私は本屋が好きでした」P149
取次は仕入れに役立つ情報を本屋に提供する。
出版社は、その本を作った者の氏名を明らかにし、責任の所在をはっきりさせる。
読者は本屋に対して積極的にものを言う。クレームも激励も
店員が責任をもって良書を選んで仕入れる、いわゆるセレクトショップとなることが必要だというのだ。
セレクトショップ・・。憧れのセレクトショップ。セレクトショップかあ・・。
では、今の場所でセレクトショップが可能かどうか、脳内実験をして検証してみよう。。
脳内実験その1;人材は難題
地方の郊外の店で募集をかけるとこんな感じになる。
なぜ書店で働こうと思ったのですか?
本を読むのが好きだからです。
本が好きなんですね。普段どんな本を読まれてるのですか?
ワンピース全巻読んでます
・・・・
おら、わくわくすっぜ!・・・じゃなかった・・。
読書といえばコミックで、活字といえばライトノベル。
それの何が悪いんですか?
もちろん悪いわけではない。ないのだけれど、
それしか読まない書店員というのは、セレクトショップには向かないのではないだろうか・・。
やっぱり書店員というと、
大佛次郎をだいぶつじろうではなくオサラギジロウと読めるとか、
内田百閒をうちだひゃくぶんではなくうちだひゃっけんと読めるとか
「モモ」といったら「ミヒャエル・エンデですね」と即答できるとか、
そんなイメージなのではないのだろうか。違うのだろうか。
もちろん世の中には、選書して責任ある店づくりをできる人材はいる。いるだろうけれども、いないところにはいない。なにより自分がそれを証明している(泣)。
人材が確保しにくい地域ではセレクトショップはできにくいだろう。
そうするとある地域には書店が集中し、ある地域にはますます書店がなくなる、という状況になるのではないだろうか。
それでは「国民全体の文化教養を底上げするための装置」としての書店ではなくなってしまう。選ばれた地域に住む人たちしか行けない書店。それでいいのだろうか。
脳内実験その2;あの日あの時あの場所で・・
仕事柄、東京なども含めていろんなセレクトショップを見て回った時期がある。
どれも、おしゃれで、個性的で、面白そうな本が並べられていて、
素敵だニャ~・・憧れるニャ~・・
という感じだ。
セレクトショップとは反対の、本部からのトップダウン方式でランキング上位の本だけを置くタイプのいわゆる「金太郎あめ書店」がある。
店員は言われた通りに並べればいいので新人バイトでぜんぜんOK、という感じで運営されてい店は、申し訳ないがやはり書店としての魅力はなく、
こんな店は書店とは認めんぞ!
などといういったいどこから目線なのかわからない意見を持っているのだが、そういう店に比べたらセレクトショップは矜持が感じられて文化のにおいがして、素敵だ。
素敵なのだが・・・・・ しかし・・・・・なぜか、
二回以上、足を運んだことがない・・。
自分だけなのかもしれないが、セレクトショップは二度三度と普段使いで生きたい場所とは少し違うような気がする。普段足が向くのはやはり「普通の本屋さん」なのだ。
それは、なぜなのだろう・・。
人との出会いで一番幸福を感じるのは、この無秩序にも思える混沌とした世界の中で、想像もしていなかった予想以上の出会いに巡り会った時、ではないだろうか。
なんだか天の祝福を受けたような、そんな奇跡の瞬間。それがうれしいのだ。・・・まあ、そんな人との出会いが自分にあったかどうかは置いといて(泣)本との出会いも全く同じだ。
聖書もエロ本も嫌韓本も哲学書も、聖も俗もこの世の混沌がすべて詰まっているような書店空間の中から、自分が
どんな本を選ぶのか
どんな本から〝呼ばれる〟のか
その未知数なところに、本屋に行く喜びがある。
そしてその「出会いがうまれる空間」には正直、誰かの自我はあまり強くは関わらないほうがいいような気がするのだ・・。
美味しいコーヒー店でも、店主の自意識がうるさいと居心地が悪いように、店の中に「意思」が充満していると、偶然に出会うすき間がなくなってしまうような気がするのは、私だけだろうか。。
ちょっと、なに言ってんのかわかんない・・
ですよね・・。オカルト的な話になってきましたw。
誰かが、エロ本だけじゃ恥ずかしいからと混ぜてレジに持っていこうとして、やっぱり途中で気持ちが変わって置き捨てられた哲学書とか、ビジネス本の棚にバイトが間違えてさしてしまった、詩集の本とか、
意図せずそこにあったものが、運命の本となる可能性は失われてほしくない。
実際、わたしがエマソン論文集と出会ったのは、ヒマつぶしで入った書店の、おそらく返品ができずに仕方なく残してあるのであろう岩波文庫の棚の、歯抜けていて本が斜めに倒れたまま放置されているようなダメダメな棚だった。
店員があまりセレクトしすぎると、お客が逆にセレクトしにくい、という逆説が生まれるような気がする・・・のは私だけだろうか・・。
いかん・・・だんだん話がまとまらなくなってきた・・。
とにかく、
自分がこの業界に入ったのも偶然の導きだったし、次々と閉店のたびに消えていった仲間たちの分も、生き残った者として最後までできることをしようと思っている。
思っているけれど、最近、心の疲弊が止まらない。
私も本屋が好きでした。
と言わなくて済むようにするためには、どうしたらいいのかを考えている日々なのだ。
んで、結局どうしたらいいわけ?
えっと・・・・・じゃあ・・・
次は、チャットGPTにきいてみます・・(泣)