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待つのはお嫌いですか。
先日、贈答品を探しにデパートへいった。コーヒー専門店があったので、豆の詰め合わせにるすことに。
箱詰めされた商品をいろいろと見ていると、おしゃれな缶が3つ入ったものがある。値段的にも大きさ的にもちょうどいい。ただ、インスタントの粉なのか、ドリップ用なのかわからなかったため、お店の奥にいるお姉さんに声をかけたところ、「はい!なんでしょう!」と大変良い感じで小走りできてくれた。
これは、インスタントの粉のコーヒーですか?
と聞く私。
う~んどうなんでしょう、わからないです…
とお姉さん。
そしてその後、まっすぐな目をしておっしゃった。
わたし、コーヒー飲まないんですよー。
・・・。コーヒー専門店のスタッフからのまさかの告白。いやそういうことじゃなくて・・(笑)
そのあと、おもむろに缶を耳に近づけて振り、カサカサという音を確認し「多分、粉です!(ニコ!)」とお姉さん。
うむ。なかなか斬新な接客である。
最終的に購入することになって包装と熨斗をお願いした。(買うんだ)
ラッピングしてもらうあいだ、サービスでいただいたドリンクを飲みながら待つことにする。
デパートを行きかう人々や、窓の外の眺めながらアイスコーヒーを飲む。
それからどれくらいたっただろう。
もうだいぶ前にアイスコーヒーを飲みほしてしまい、今ではストローで所在なく氷をつんつんする状態に入っているのだが、まだ包装はできそうにない。
奥のほうでゆっくりと考えながら包装している店員さんの姿が見える。
いつごろできるかな~と思いながらその姿を見ていたら、突然、うしろから「いらっしゃいませ~」という明るい声がした。年配の女性がスタッフルームから出てきて私を見かけて声をかけたのだ。お昼休みが終わったところらしい。
なぜお昼休みだとわかったかというと、両手に空になったお弁当箱とマグカップを抱えていたからである。かわいらしい白とピンクの弁当箱の中からお箸が落ちそうになっている。
ニコニコしながら、ちょっと失礼しますと客の前を自前の弁当箱をもってカウンターの中へと入っていく、のどかな光景・・。
以前、テレビで銀座の有名デパートの地下の特集を観たことがある。
敏腕マネージャーが、テナントをひとつひとつ毎日チェックしている。
うちのデパートの質に合わないテナント様は、即撤退していただきます。
恐ろしいセリフをサラッと吐く。その日はショーケースの上にボールペンを置きっぱなしにしていたテナントが、デパートの質に合わない店として問題視されていた。
そ・・・それだけで・・?
見ているこちらも恐怖におののく。しかし、やはり一流デパートというものはそれくらい厳しいのだな・・と感動もした。
ところ変わって今来ているこのデパートも、分店とはいえ地元の老舗である。だからこそ贈答品にはここの包装紙で、ということで来ているわけであるが、老舗といっても先の銀座のデパートのようなストイックな緊張感とは無縁らしい。
店の流し場で家から持ってきたピンクの弁当箱を洗うスタッフの姿がお客さんから丸見えの、ほのぼのとした光景がくり広げられている。。
わるくない。
理想を追求するストイックな態度も好きだが、こういう牧歌的?な空気も嫌いじゃない。世界はそうやってバランスと取っているのだ。
どっちもあって、どっちもいい。ありのままでそのままでいいんだよ。みつお。
私にしても、
秒で稼ぐ俺
的な人生を生きているわけでもないので、多少待たされてもかまわない。かまわないんだけど、
・・・まだかなー・・・
それから先輩スタッフが弁当箱を洗い終わり、お客様の注文のドリンクをつくりはじめたころ、ようやくお姉さんの包装が終わったようである。よかったよかった。私も受け取って帰るための準備に入る。
しかし、あとは熨斗をつけるだけ、という段階になって、おもむろにお姉さんの動きが止まった。箱と熨斗を交互に見ながら悩んでいる。
・・ど、どうした?
先輩スタッフのところにいって、なにやら「逆にしちゃいました」的なことを伝えて助けを求めている。逆? 逆とはどういうことだろう。
おそらく熨斗をつける包装の表に、中身の箱の表が来ないといけないところ、それをさかさまに包んでしまったということらしい。それに熨斗をつける段階になって気づいた模様。
やばい。
なんか「一からやり直し」になりそうな空気だ。
「逆でも逆さでもかまわないので、もうそのまま熨斗つけてください!」と思わず言いたくなったが、きっとそうもいかないのだろう・・。
案の定「こっちすぐ終わるからおいといて!」という先輩スタッフの一声で、(長い)時間をかけて包んだ包装紙は、一瞬にしてお姉さんの手でベリベリとはがされてしまったのでした。
り、すたーと。
帰る体制だった私も、再度座りなおす・・。
【太宰治「待つ」(新潮文庫 新ハムレット 収録)】
待つこと、待たされるこは=悪、という時代になった。
お待たせしないことが接客の基本であるし、待たされた客が店にクレームをつけることは正義である。
メールの返信が一日こないと捨てられた気分になり、既読の文字に踊らされる毎日。
でも待つことは当然、悪でも何でもない。むしろ、人は一生を何かを待って生きているのではないだろうか。
そういう若い女性を描いたのが太宰治の「待つ」である。
彼女は駅で待っている。毎日毎日待ち焦がれているのだが、いったい自分が何を待っているのかはわからない。恋人なのか、運命なのか、それ以外の何かなのか実はわからない。でも、待つことをやめられない。その来るべき何かを待って待って待ち焦がれている若い女性。
結局、主人公の女性がいったい何を待っていたのかはわからないまま終わる。しかし待つ彼女のその心に現れては消える、不安、希望、焦燥、その万華鏡のように変わる「待つ心」は、どこか自分の中にもあることに気づかされる。
確かに何かを待っているような気がする。それは人なのか、物なのか、宇宙人なのか、この世の謎が解ける瞬間なのか、自分から解放される瞬間なのかわからないけど、常に心の奥底で、確かに何かを待っているような気がする。
だけれどその待っているものは、いつまでたってもやってこない。待っているものが何なのか自分でもわからないので、どうにも手の打ちようもない。
その、永遠のように感じる「待たされていること」に耐えられない心が、日常の瑣事の中での待たされないことを望む気持ちへとつながっているのだろうか。せめて日常の中では待たされたくない。待つのはもう、うんざりなんだ、と。
でもそれは代用の満足でしかない、偽物の満足だ。だから心の底から満足することができずに、もっともっと、待たなくて済む状況を望むようになる。本当は愛が欲しいのに、それが手に入らないからと快楽物質に依存する人のように。 待たなくていい食事。待たなくていいショッピング。待たなくていい窓口。 1時間でわかるビジネスの極意。1か月でマスターできる英会話・・。
・・・・・ちょっと、何を言ってるのかわからなくなってきた。
何を待っているのか、何を言っているのかもわからない人生だけれど、今私が待っているものは、はっきりしている。
買った商品の包装である。
まだかなー・・・・・。
待つ人生は、まだ続く。